
枇谷玲子の北欧コラム②ームンクってどんな人?
ムンクってどんな人?
2018年10月27日~2019年1月20日まで、東京都美術館で『ムンク展―共鳴する魂の叫び』が開催される。ムンクの『叫び』は日本でも知らない人はほとんどいないぐらい有名だ。だが「ムンクってどんな人?」と聞かれて、答えられる人はいるだろうか?
8月6日にムンクの伝記漫画『MUNCH』(ステフン・クヴェーネラン・著、枇谷玲子・訳)が、誠文堂新光社から刊行される。作者によると、ムンクは現地や世界中で出されてきた多くの伝記の中で恐怖心にさいなまれていた面ばかりにスポットが当てられたことで、その人格を誤解されてきたそうだ。ではムンクは、どんな人だったんだろう?
ムンクはユーモアのセンスがあり、子どもっぽい性格の持ち主だった
作者はこう述べている。「友人達いわくムンクは実際はユーモアのセンスがあり、子どもっぽく、人間臭い男だったそうです」
またムンクの従兄弟で支援者で友だったルドヴィグ・ラーヴェンスバルクは漫画の中でこう証言している。「日常的に付き合う上では、ムンクほど誰に対しても分け隔てなく接する男は、世界中どこを探してもいないだろう。ユーモアのセンスに長け、冗談もよく言い、すがすがしいほど少年ぽかったそうだ。子どもっぽくすらあったんだ」
ムンクとストリンドベリの友情
本作ではムンクが30歳だった1893年あたりからベルリンで、スウェーデンの劇作家、ストリンドベリを中心とするボヘミアンと交流した時の様子もユーモアたっぷりに描かれており、そこからムンクの人となりが垣間見れる。
例えば、漫画の中で、ノルウェーの歴史家でオスロにある国立美術館の初代館長だったイェンス・ティースは次のように述べている。
「いかにもノルウェー人というざっくばらんなムンクとスウェーデン人らしい品位と威厳のある物腰のストリンドベリは水と油のようだった。しかし2人は実に馬が合いベルリンで出会ってすぐに、 ひとかたならぬ思想の交流がなされていた」
またフィンランド人の著述家、ジャーナリストのアドルフ・パウルはこう書いている。「ストリンドベリとムンクが友情で結ばれていたのは、文学や心理学などに2人とも関心があっただけでなく、絵画芸術の趣味も合っていたためだった。ストリンドベリにとって絵を描くことは、単なる趣味ではなかった」
固い友情で結びついていた2人だったが、ムンクは33歳の時、母代わりの叔母に宛てた手紙の中でムンクはこう書いている。「ストリンドベリはスウェーデンに帰ってしまったよ。精神病の治療を受けるのだろう。彼は奇妙なことをあれこれ言い出したんだ。金貨を作ったとか、地球は本当は平らで、星は天空に開いた穴だとかそんなことを」ストリンドベリとの交流が途絶えたことは、ムンクの人生最大の悲しみのひとつだったようだ。
ムンクは前衛的な女性観の持ち主だった
日本で言う幕末、薩英戦争が起きた1863年に生まれたムンク。ベルリン留学時代、ムンクはストリンドベリ達と黒仔豚亭という酒場に集い、芸術談義をした。そしてその議論の場に女性を引き入れようとした。
上のイラストにあるオーダ・クローグはノルウェーの女性史を語る上で欠かせない人物である。当時のノルウェーでカフェや酒場に女性だけで足を踏み入れることはスキャンダラスなことと考えられていた。当時珍しかった女性画家だったオーダも夫のクリスチアン・クローグもクリスチャニア・ボヘミアンと呼ばれた急進的な芸術家集団のメンバーだった。夫婦はともに自由恋愛を信条とし、社会の道徳規範から囚われるまいと考えた。ヒッピー運動が起きる100年の前にこのような自由な考えの持ち主がいたのだ。
またムンクもストリンドベリも自由で奔放な女性を愛し、女性との性愛を自らの創作の中で表現した。
その頃日本では
ムンクがベルリンでストリンドベリ達と交流したのは1893年。日本では列強に追いつき追い越せと躍起になっていた明治政府が、1890年(明治23年)、資本主義育成のため、夫婦中心の小家族制が一般化するという考えに立って民法(旧民法)を公布。だがこの民法は公布されるやいなや家父長制を維持することで皇室中心の家族国家が守られるという保守派に批判された。結局保守派がこの論争に勝利し、民法は改定され、妻だけに姦通罪を課せられ、このことにより家父長制と女性蔑視が社会へと浸透していった。学校では良妻賢母教育が強化され、家の重圧で苦しむ人々の姿が徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』や樋口一葉の『十三夜』などで描かれた。樋口一葉はまた『うらむらさき』の中で、貞淑な妻であるよりも、姦通罪をも辞さず、自分の気持ちに正直になろうと決意する女性を描いた。
保守的な父
ムンクは元々ノルウェーにいた頃の1884年、21歳の頃、自由恋愛と貨幣制度の廃止により社会を無政府主義に変えようとしたヘーゲル派の社会哲学者ハンス・イェーゲル達ボヘミアンのグループと交流した。しかし敬虔なクリスチャンで保守的だった彼の父は、ムンクがイェーゲル達と交流することも、半裸の女性の油彩画を描いたりしていることも快く思わず、そのことで親子が言い争いになることもしばしばだった。
『人形の家』のイプセンも登場
本作にはムンクの個展にイプセンがあらわれ、「悪いことは言わない――君は私と同じ運命をたどるだろう――覚えておきなさい。敵が多ければ多いほど多くの友人に恵まれるものさ」という言葉を贈った時の様子も描かれている。ちなみにイプセンはムンクのベルリン留学よりも10年以上前の1879年に『人形の家』で女性の家庭からの解放を謳ったノルウェーのジェンダー史の重要人物である。
今回の『MUNCH』には奔放な女性を愛しつつもミソジニスト(女嫌い、女らしさを嫌悪する人)として知られるストリンドベリ、男女の性愛を描いたムンク、彫刻家のヴィーゲラン、女性解放を描いた戯曲『人形の家』であまりにも有名なイプセンが登場し、ジェンダー分析の観点からも非常に興味深い作品だ。
ムンクはエレン・ケイが生まれた14年後に、平塚らいてうはムンクが生まれた23年後に生まれた
ちなみに日本の女性史に欠かすことのできない『青鞜』(1911年創刊)を編纂した平塚らいてうは、スウェーデンの思想家エレン・ケイに影響を受けたが、エレン・ケイが『恋愛と結婚』を描いたのはムンクが40歳の時、1903年のことだった。ちなみにエレン・ケイは1849~1926年、ムンクは1863~1944年に、平塚らいてうは1886~1971年に生きた。日本でフェミニズムの書籍としては異例のヒットした『村に火をつけ白痴になれ――伊藤野枝伝』(栗原 康 ・著)の伊藤野枝は1895年生まれ。貞操問題などに独自の論を展開。らいてうの後に『青鞜』の主宰を引き継いたが、1923年、4人の中で最も早く亡くなった。女性団体を結成したり、フェミニズムの執筆活動を盛んに行ったことで憲兵隊に睨まれ、虐殺されたのである。
生涯独身を貫いたムンク
ムンクは恋愛で深みにはまりそうになると、すぐに逃げ出した。単に面倒だったのである。結婚はせず、生涯独身で、家庭で家事や育児を女性に任せることはなかったようだムンクは芸術にのめり込む余り、実生活はおざなりにしがちだったとも本作に描かれている。彼は性愛の面では自由恋愛を唱えたイェーゲルの影響を受け、既婚者をも愛し、女性に貞淑は求めなかった。男女の性愛、エロチシズム、貞操操観念や社会規範は、この『MUNCH』の、そしてムンクの絵画のテーマの1つと言えそうだ。
ムンクの時代は買春は禁止ではなかった
またその当時、男性が売春宿に行くのは一般的で、ムンクも買春を行っていたのではないかと、この漫画の作者は描いている。ノルウェーで買春禁止法が施行されたのは2009年に入ってから。日本ではいまだに買春は禁止されていない。ただ買春禁止法についてはノルウェーでも賛否両論あるようだ。日本でも今盛んに議論されているトピックである。
このように当時の北欧の男性の女性観は人によって様々で、保守派もいた。異なる価値観の間で揺れ動くムンクの姿も、本作『MUNCH』の見どころの1つだ。